「普通じゃない」人の2つの不幸

烏蛇ノートより
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ミソジニーな人や過剰に恋愛を否定したがる男性が恋愛にコンプレックスをいだいてるのは明らかでしょう。
自分が普通の人間だと思っている人は自分が普通の幸福が得られないことをそう簡単に納得できない。これ自体、他人に暴言吐いたりしない限り悪いことじゃない。
 もちろん納得できればちょっとは幸せになれるでしょう。でもそれを普通の幸福を享受する人間から言われたら余計こじれるだけ。じゃあ、てめぇも同じ状況になってみろよ、と。
 性規範から自由になれ、っていう前に、まずその規範が与える強迫性を考えるべき。「恋愛は男女間が当たり前」という性規範に漏れたゲイなんかに、「男女の恋愛に固執するから不幸なんだよ。すなおに今の状態を受け入れることでもっと自由になれるよ」なんていったら怒るだけでしょう。受け入れずらくしてるのは誰なんだよ、と。
 この種の不幸には二点あると思う。ある種の幸福が享受できない不幸。その状態でいるために周りから侮辱されたり、からかわれたりする不幸。

 結婚や同性愛を考えればよくわかると思う。結婚できない不幸。それを周りからとやかくいわれる承認されない不幸。男なのに女を愛せない不幸。それが周りから承認されない不幸。
 むろん両者は厳密には分けられないと思う。でも片方はクリアしてるのにもう一方が問題になる場合が多い。自分としては結婚なんてしなくてよいと思ってても周りがうるさい。それなりにプライドがあり社会的承認を得たい人間にとってこれを否定するのは相当難しい。だから女社長とかでも、結婚してたりするでしょう。
 童貞の場合も、それ以外選択肢がある、ないという違いはあるにせよ、社会的承認が得られない不幸と持つ点では同じだと思う。最初はちょっとした不幸だと思っててもからかわれたりしてるうちに深刻化していくんでしょう。

 だから強迫観念をもってしまうのが個人的な問題にだけに還元されるのはおかしい。まず規範の持つ強迫性を考えそれに対するスタンスを明らかにしたほうがよいのでは。

弱者男性論への疑問への疑問


macskaさんのブログから
 要するに、鈴木謙介氏は『バックラッシュ!』論文で、同性愛者など「真の弱者」を考慮しておらず、「強者男性(いわゆる「弱者男性」を含む)」「強者女性」の話しかしてない、不公正だ、という内容。確かにいわゆる「弱者男性」よりも弱者な男女はいるだろう。しかしmacska氏の主張は大筋で「弱者男性」側の主張と同じどつぼにはまってる。
 「真の弱者」というのは誤読だった。どつぼにはまってるていうのは言い過ぎかもしれない。が、少なくともまだ2つの疑問がある。
 第一に赤木氏はともかく鈴木氏はベタに弱者男性のサポートを主張しているのか、という点。私は『バックラッシュ!』持ってないので実際のところはよくわからない。しかしmacska氏がまとめているのをみる限り、ベタじゃなくて戦略的な主張であるようだ。可愛そうだから、不公正だから「バックラッシュ(弱者)男性」をサポートするといようにはみえない。「強者(になるはずだった)男性」や「強者女性」の記述に偏ってるとしたらそれは問題だと私も思う。ただバックラッシュによる影響を「弱者女性」や同性愛者も受けるのは確か。だから、多少不公正な政策を行っても、結果としてバックラッシュが鎮静化し、より大きな公正を得られるならよいのでは。戦略的な主張には、それは戦略的でないというのは有効でも、不公正だという批判は必ずしも妥当じゃないと思う。
 第二に「サポート」「包摂」の具体的内容が不明確な点。はっきりしてない以上勝手に想像して批判するのはどうか。勘違いしたままでもバックラッシュとして吹き上がらないようにする「手当て」もあるのでは。
 もちろん社会保障的援助をするとかになれば、優先順位を議論する必要はある。しかし「弱者男性」が吹き上がる原因として正社員になれない、パートナーが作れない以前に、社会的に男性のそうした状態が非難される風潮があり、結果として社会的承認が得られないことが何よりの問題なのではないか。
 つまり「弱者男性」の選択肢を増やすことだけでなく、少ないなりの選択肢を選んだときに社会的承認を与えることも「手当て」だと思う。また、そうした政策は結果として鈴木氏が排除した「弱者」にも有効だと思う。